外岡秀俊、沢木耕太郎

もし、私がこの文庫『北帰行』の担当者だったならば、解説には、沢木耕太郎が1992年4月に書いた「幻の『西四十三丁目で』」というエッセイを、解説にかえる形でそのまま収録したような気がする。 沢木は、ニューヨークを仕事で訪れていた時、当時朝日新聞で連載中の「彼らの流儀」の執筆に、朝日新聞のニューヨーク支局の机を借りることにする。ここで、沢木は、初めて外岡に出会うのだが、最初は気まずい思いをした。というのは、外岡の『北帰行』を新聞の書評でとりあげていたのだが、<いくつかの細かい欠陥をあげつらうような文章を書い>ていたからだ。 沢木は、そうした書評を書いてしまったのは、世代の近い外岡に対する嫉妬心であったということをそのエッセイで正直に告白している。で、外岡にあわす顔がなかったのだが、しかし、外岡は、その書評を、「感謝している」と言ったのだった。 沢木のエッセイのきもはそれからだ。この顛末を原稿にして朝日新聞に連載していた「彼らの流儀」の一回分にしようと、外岡に原稿を送って掲載の許可を求めたところ、こう言われて断られてしまうのだ。 <自分はこれまで、かつて小説を書いたことのある外岡秀俊ではなく、朝日新聞のごく普通の記者のひとりとしての外岡秀俊であることを意志してきた> 『北帰行』の中で外岡は、社会主義者、無政府主義者としての啄木と吟遊詩人としての啄木をどう考えたらいいのか、ということを主人公の「私」に追わせている。それは常に分裂したものとして批評家からとらえられていた。しかし、と主人公である「私」は啄木の北海道時代の足跡をたどったすえに次のような結論に達するのだ。 <啄木が大逆事件に異常なまでの関心を抱いてその真相を究明したのは、彼が一人のジャーナリストであったためというばかりではないだろう。彼は詩人であったからこそ、国家の犯罪を糺明せずにはいられなかったのではないか(中略)。彼はくらしの中にできた歌の小径を通って、無政府主義に赴いたのだった> これは、その後外岡が朝日でたどることになる道をそのまま予言していた。